ユマニチュードとは、2011年に、本田美和子医師によってフランスから日本に紹介された、介護ケアについての考え方と方法です。
詳しくは、
前回に続いて、今回は、ユマニチュードの「見る」「話す」「触れる」「立つ」のうち、我が家の実践エピソード「話す」編です。
つい、もくもくと介助をしてしまいがちになる
介護は、動作としては、ある程度規則的なものが多いです。たとえば、車椅子にすわってもらって、上衣の着替えの介助をする場合なら、
- ベットから車椅子に移譲してもらう。
- パジャマのボタンを外し、動かしやすい腕のほうから袖を抜く。
- 身ごろの部分を動かしにくい腕のほうに寄せる。
- 動かしにくい腕のほうの袖をとる。
- 着てもらう服の袖を動かしにくい腕のほうから通す。
- 身ごろの部分を反対の腕のほうに寄せる。
- 動かしやすい腕に袖を通す。
- ボタンやファスナーなどをとめる。
という具合です。
毎日、朝夕に同じことをするのですから、介護者のほうも、こつをつかみ、慣れてきます。しかし、慣れてくるにしたがって、言葉がけは少なくなりがちになります。
私の場合は、より早く、着替えができるようにということに意識が向きがちでした。また、腕がどうすれば袖にスムーズに通るのかを、工夫し、試してみることに懸命になり、義祖母の顔や目をみるよりも、腕や身体の向きに視線は向きがちでした。
本当は、会話をしながら着替える方がいいということは、子育ての経験からわかるのです。
でも、毎日のことに、話題といえば、天気や気温のことになりがちで、「おばあちゃんもつまんないかなあ」などと思うと、ついつい、早く、着替えを終えようというほうに、気持ちが向いてしまうのです。
実況しながら介助をすると、安心が生まれ、積極的になる
このジレンマの中にいるとき、ユマニチュードについての番組と本から、今、していることを実況すると、介護を受ける人も安心するということを教えてもらいました。
たとえば、前述の着替えで、私の場合は、こんなふうに言葉がけをしながらやってみました。
- 「おばあちゃん、朝だから、上着も着替えましょうか。」
- 「車椅子に座りましょうね。」
- 「いち、にの、さん!」(車椅子に移譲するとき、声をかける。)
- 「おばあちゃん、上手く座れたわー」
- 「今日も座れましたよー。よかった、よかった^_^」
- 「そしたら、お着替え手伝いますね。」
- 「パジャマのボタン外させてね。」
- 「こっちの腕、お袖抜けますか。」
- 「あっ!抜けましたー!」
- 「そしたら、こっちのお袖もとりますね」
- 「今度は、ブラウス着ましょうか」
- 「今日はあったかいし、このブラウスが似合ってるから、今日はこれにしましょう。」
- 「じゃあ、こっちの腕からお袖を通しますよ。」
- 「はい、通りました。」
- 「今度は、こちらの腕を通してくださいねー。」
- 「おばあちゃん、ありがとう。上手く通りましたよ。」
- 「ボタンとめますね。」
- 「お着替えできましたよー」
このようにすれば、話題に困ることはありません。また、何よりよいのは、義祖母自身が、着替えに積極的になることです。
袖から腕を抜いたり、通したりするのは、服を着る本人が腕を引っ込めたり、伸ばしたりしてくれると、比較的やりやすいのですが、まったくのなされるがまま状態では、ひじが引っかかりなかなかスムーズにいきません。
力の入れようによっては、高齢者のデリケートな皮膚が服にこすれてあざになったりする心配もあります。
でも、自分で腕を動かしてくれると、袖はするりと抜け、こちらも助かりますし、義祖母自身も肩や腕の運動にもなります。
また、「着替えさせている」「着替えさせられている」という一方通行の気分ではなく、「一緒に着替えている」「今日のおしゃれをしている」「ついでに、運動もしている」といった、前向きな気分で、着替えの時間を過ごすことができます。
すると、いつしか、3の「いち、にの、さん! 」の掛け声を義祖母も一緒にしてくれるようになり、5のように、「今日も座れましたよ」と嬉しさを伝えると、「あー、よかったよかった。うれしいよー。」と答えてもくれました。
そして、袖を抜いたり通したりする、着替えのちょっとした難関が、よいリハビリの機会になっていきました。
積極的な気持ちがあると、介助ははかどる
靴下や靴を履いてもらうときも、要介護者の方が、足を少し前に差し出して足先に力を入れてくれるだけで、足は靴下にも靴にも入りやすくなります。
要介護者の足元に、介護者が腰をかがめて行うことも多い靴下をはくことの介助は、要介護者の協力のあるなしで、はかどり方も気分もまったく違います。
義祖母も、いつしか、私が、身体をかがめて義祖母の足元に座ると、「靴下履きましょうか。」という前に、足をひょいと上げてくれるようになりました。言葉でのやりとりは、なかなか通じないことが多かったですが、このときは、なにか、あ、うんの呼吸のようでうれしかったものです。
ある時、お迎えに来てくれたデイサービスの方に気を取られ、一瞬、足に力を入れることに気持ちが向かないことがありました。すると、もう、お迎えに来てくださっているし、早く履いてもらわねばと焦る私の気持ちとは裏腹に、足首がくねくねとしてしまって、いつものようにすっと靴が入りません。
そのときは、いつも、義祖母が、協力してくれているからこそスムーズに履けていたんだと、実感しました。
介護者の気持ちも楽になる
義祖母が少しでも、私が介助しやすいように気遣ってくれていることは、私にとって、単純にうれしいことでありました。
いわゆる、おしゃべりをするという、言葉でのコミュニケーションは難しくても、話しかけることによって、心が動き、感情が呼び覚まされて、できることをやろう、また、してあげようという気持ちになるのだということを、教えられました。
考えてみれば子育てもそうです。親が命令をして、子はただそれに従うというのでは、人間としての本当の成長は期待できません。それは、命令する人にとって、都合がいいだけのことです。しかし、その無理は、いずれ、問題として出てくるでしょう。
人としての心豊かな成長や、人同士の心地よい関係を望むのなら、目の前の高齢者にも、小さな子どもにも、「心が動いていて、わかる人」として、接することが大切なのだと思います。
「話せないこと」は、「わからないこと」ではないのです。
話せるほうが、気持ちよく話しかけることで、うまくは話せない人も、何らかの方法で、「あなたの気持ちはわかっているよ」と教えてくれると思います。
逆もしかり。罵ったり、ただ不機嫌に怒ったり(必要があって叱るのではなく)、文句ばかり言ったりすれば、要介護者も子どもも心を閉ざしてしまい、問題行動も増えるのだと思います。単純に、嫌な気持ちになるから。誰だって、自分を心や感情のある人間として接してくれない人に、従ったり、親切にしたりする気持ちにはなりません。ましてや、その人を信頼などしませんよね。
特に、気の利いたことを言う必要はないのだとわかって、私は、話しかけるということについて、ずいぶん心が軽くなりました。
義祖母とのコミュニケーションは、圧倒的に私が話しかけるほうが多かったですが、そのうち、表情や目の動きから、言葉にならない「応答」も感じられるようになり、介護の気持ちの重さの原因になりがちな、コミュニケーションにおけるはがゆさから、ずいぶんと解放されました。
目を見て話すことは、その人を大事に思っているということを、ダイレクトに相手の心に伝える方法なのだと思います。
そう考えれば、プロポーズも同じ。
子どもたちには、ちゃんと目を見て話す人と結婚することを勧めようと思います。