子育ても介護も、親であり介護者であるケア側にすると、「思い通りにはいかないこと」「どうすればいいのかわからないこと」ということが、たくさんあります。
それに、子育てをしながらのダブルケア介護は、こなすべき事柄が多くあり、気持ちの余裕を失いがちです。そんなときは、世の常でトラブルも多くなりがちです。
でも、そんな日々を、無事に、そしてできれば前向きに過ごすために、一つ一つのケアをスムーズに行いたいのはもちろん、気持ちの摩擦も極力避けたいものです。
フランスからやってきた、ユマニチュードの考え方と介護の方法は、こんな望みの実現に、大きなヒントをくれます。
今回は、我が家で実行してみた、「見る」「話す」に続いて、「触れる」編です。
触れられるのと、つかまれるのでは、相手に対する第一印象が違う
たとえば、どこかで椅子に座っていて、背後から来た人に腕をつかまれたら、どうでしょう。あるいは、前に立って自分を見下ろしている人に、腕をつかまれ、どこかに連れていかれたら……。
私なら、相手に不信感をもち、抵抗したくなります。たいていの人の、自然な反応ではないかと思います。
でも、たとえ背後からであっても、優しくふれられたら、そんなに驚かずにいられます。また、前から、笑顔で、椅子に座っている自分の目線の高さに合わせて話してくれる人に、立ちましょうかと手に触れながら促されるなら、立ってみようかという気持ちにもなれそうです。
このように、つかまれるのと、優しく触れられるのでは、相手に対する印象が全く違います。
あたりまえだけど、気づきにくい
自分に置き換えてみれば、こんなにもあたりまえ のことだと思えるのに、介護者という立場に立つと、意外と気づきにくいのが、「ふれる」と「つかむ」の違いだと思います。
なぜなら、介護者としては、要介護者の身体を支えなければならないと、強く思った場合にこそ、手や腕をぐっと引き寄せることが多いからです。
介護施設や病院では、ケアが時間との戦いになってしまうことが多いそうですが、ダブルケアでも同じことが言えます。仕事も、となると、さらに出社時刻や納品締切日に追われてしまうこともあります。
また、学校行事なども、日時がきっちりと決まっており、子どもの出番や説明会などに間に合うように行動しなければなりません。
すると、安全にケアすることと、間に合わせるということが、第一義になってしまい、焦りも相まって、力も入りがちになるというものです。
しかし、やはり、ケアを受ける人にとっては、こちらの事情を考慮したとしても、必要以上に強い力で身体にふれられることに穏やかではいられないのが当然だと思います。
手のひらに気持ちのクッションを入れてみる
「間に合わせなきゃ」「絶対に倒れないように力を入れて支えなければ」そんな気持ちを持ちつつも、「つかむ」のではなく「ふれる」ケアをすることが、私の自覚をはるかに超えて大切だと、ユマニチュードの考え方は教えてくれました。
でも、実践は、意外と難しいのです。しっかり支えなきゃと思うほど、力は入ってしまいます。
それで、義祖母の身体にふれるときは、手のひらと義祖母の身体のあいだに、気持ちのクッションを入れるようなイメージをもつように意識してみるようにしてみました。
それによって、ガシッと支えるというよりも、包んで支えるというふうに私の手足や身体の動かし方もいくらか変わったと思います。
そして、義祖母は、余分な力を入れず、ふんわり身体を預けてくれることが多くなりました。また、着替えで服の袖を通すときや抜くときなどには、自分でも工夫して腕の向きを変えたり、力を入れてくれたりするようになりました。
服の脱ぎ着の関門のような袖の部分が、スムーズに着脱できるようになることは、ストレスもかかる時間も少なくしてくれます。そして、何より、着替えが終わったときの気持ちに、嬉しさが加わります。
手のひらはコミュニケーションをとるためのものでもある
この、「ふれる」を意識するだけでも、ユマニチュードの考えは、介護を一方通行から介護者と要介護者の共同作業に、さらに、コミュニケーションの一助にしてくれるものだと思います。認知症や失語の症状がある方にとってはなおさら、介護者の手のひらから伝わるものは多いでしょう。また、要介護者も手のひらに託す思いは大きいと思います。
介護者の手は、とてもよく働きます。その機能の一つとして、口や言葉、目と同じくらい、手のひらはコミュニケーション能力をもっていると思います。
だから、まずは、優しく「ふれる」ことが、「あなたを大切に思っていますよ」という良好な人間関係の前提となるメッセージとして、大きな意味をもつのだと思います。
また、義母も義祖母も、言葉がうまく出てこなくなるにつれ、手を握るときに力を込めるようになりました。それは、特別なときだけではなく、日ごろお世話になる医師やケアマネジャー、ヘルパーさん、リハビリの先生方との日々のコミュニケーションでした。
「じゃあ、明日また来ますね。」と、挨拶に差し出してくださるヘルパーさんの手を、義母も義祖母も、いつも、ぎゅっと握っていたものです。「ありがとう」「また、明日」「気をつけて帰ってね」といった気持ちを手のひらにいっぱい詰め込んでいたのでしょう。
朝、目覚めた義祖母の身体を起こし、ベットに座ってもらい、背中をさするとき、私のお腹あたりにおでこをくっつけていた義祖母の身体の温かみが、今も残っています。そして、たまに、私の腰あたりにまわしていた手のひらをトントンとしてくれました。それは、義祖母の私へのいたわりであったと思います。