ダブルケアデイズ

子育ての最中に、介護がやってきた!ひた走る日々。

ダブルケア 家庭の介護力に応じた介護プランを考える

各家庭の介護力は、介護が始まった当初の介護力がずっと保たれるわけではありません。だから、そのときどきの被介護者、子ども、仕事、そして家計などの状況とバランスを考えながら、介護プランを作っていく必要があります。

また、家族には、「情」というものがあって、この思いとの折り合いも大切になるでしょう。

我が家のケースでは、義母は進行性の病気であったため、どこまで家庭で看るのかを考えておく必要があるよと、当初から医師に言われていました。そうは言われても、介護そのものが初めてのことで、はじめはよく考えることができませんでした。

しかし、月を重ねるうちにだんだんと、介護力を正しく判断することの大切さを先生はおっしゃっていたのだということがわかるようになっていきました。

 

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アサヒスタイル「診療所の窓辺から」より

高知県四万十川のそばで、診療所を開いておられる小笠原望(おがさわら のぞみ)医師が、スタイルアサヒに「診療所の窓辺から」という連載を書いておられます。

連載をまとめた本も出版されました。

 

診療所の窓辺から―いのちを抱きしめる、四万十川のほとりにて―

診療所の窓辺から―いのちを抱きしめる、四万十川のほとりにて―

 

 

この連載の6月号のタイトルは、「介護力に応じた段階を踏んだ介護を」というものでした。このタイトルと先生の文章を読んで、「それでいいんだ」と介護生活が終わった今の私でさえ、なにかほっとした思いがしました。

 

介護のスタイルを変えるときに抵抗を感じてしまう

介護生活の中で、被介護者の心身の状態に変化があったとき、介護者家族の生活や心身の状況に変化があったときと、介護を続けていると、介護の在り方や家族の生活の変わり目のようなときがやってきます。

そのとき、主たる介護者の負担を少し軽くする選択をしようとすると、

もう少しがんばれるのではないか、

介護から逃げて楽をしたいと思われるのではないか、

今日はもうこれ以上できないと思っても明日はできると思えるのではないか、

介護や生活の仕方の工夫がたりないだけなのではないか、

などなど、介護者自身が自分を責めたり、自己嫌悪に陥ったりすることがあります。

また、実際に、介護にほとんど参加しない親族から、「かわいそうだ」などと、非難されることもあるかもしれません。

さらには、被介護者自身から、「私を捨てる気か」といったニュアンスの抵抗を受けたり、感じたりすることもあるかもしれません。

 

余力を残した介護がいい介護につながる

しかし、余力のない介護では、ある日ある瞬間に限界を超えてしまったとき、一気に被介護者、介護者双方の生活が崩れます。

いわゆる、共倒れです。

急に、それまでの介護者との関係を失った被介護者の心身の安定を取り戻すことには、相当の時間と周囲の人の努力が必要でしょう。

認知症なら、どこにいても、だれと接していてもわからないと思う向きもあるようですが、私はそうは思いません。

要介護5の義祖母の介護をしていて、日常あまり接することのない人のことは忘れていても、だれをいちばん頼りにすればいいかということは、敏感に感じ取り判断していると思われることが多々ありました。

一方、「かわいそうだ」と主たる介護者の負担の軽減に反対していた親族が、「それでは私が変わって十分な介護をしましょう。」と、即座に介護を交代することはなかなかないでしょう。それなら、初めから、協力するはずだからです。

このような、介護体制が一気に崩れてしまったときのリスクを考えると、余力が常に残るように介護プランを組みかえていくことは、介護にかかわる人が被介護者のために考えるべきことの一つであると思います。

そうすれば、介護が長くなって介護者に休養が必要なときでも、被介護者にかかわる人や、場所を大きく変えることなく介護を続けられる体制を維持していくことができます。

 

家族にしかできないことができる状態をキープできるプランに

デイサービスやショートステイなどの通所介護施設を頻繁に利用したり、在宅介護から施設入所に切り替えたとしても、家族にしかできないことは多くあります。

話をゆっくりすること、

食事を手伝うこと、

夜間の排泄を手伝うこと、

ときには散歩や外出をすること、

気に入る衣料をそろえること、

さまざまな事務手続きをすること、

入所費用を収めたり、管理すること、

施設職員のスタッフと良い関係を築くこと、

背中をさすったり、手を握ったりすること、

家族、とりわけ子どもの生活を守ること、

などなど……。

このようなことが持続できる余力を残した介護が望ましいと思います。

精魂尽きて、ある日倒れこんでしまうほどの介護を担うことは、理想的な介護とは言えないのです。

 

医師、訪問看護師、そして親族から主たる介護者に進言を

先に書いたように、主たる介護者の負担を軽減する方向に介護プランを変更しようとするとき、介護者のほうは、休息が必要な状態であるにもかかわらず、自分を責め、もっとがんばらなければと思ってしまうことがあります。

そんなときは、医師や訪問看護師さんのような専門的な立場の方に、休んだほうがいいということを進言していただけると、心身がかろうじて健康を保っているあいだに冷静な気持ちでの判断がしやすいと思います。

また、介護に参加していない親族の方々が、主たる介護者が休息の時間を確保できるように配慮をしてくださることを願います。

夜もよく眠れないまま、気の抜けない状況に常に置かれて、機嫌よく健康で行き届いた完璧な介護ができるでしょうか。

ダブルケアの状態では、子どものことも常に心にかけ、対応しなければならない状態です。

主たる介護者以上のことを、何か月も、何年も続けられるのか自問して、主たる介護者に自分の理想とする介護を代わって実行してもらうということを望むよりも、自分にはできないことをしてもらっているということを自覚していただけると、介護者は、いくらか救われた気持ちになります。

 

再び「診療所の窓辺から」より

介護が始まって、この小笠原先生の連載記事をはじめて見つけたとき、波立つ心のひだに、一つ一つの思いやりにあふれた言葉が染み入るようにはいってきて、「わかってくださる方があるのだ」と、心底安心したことを覚えています。

それ以来、介護が終わった今も、毎月の先生の文章が待ち遠しく思われます。

その先生が、アサヒスタイル6月号にこうも書いておられます。

「介護の大変さは、経験したものでないとわからない。手を汚さない人の言葉に惑わされてはいけない世界だ。」

どこか、きっぱりとした気迫を感じるこの一文から、先生が診療をされる患者さんの数だけ、介護者と被介護者、そして取りまく人々との関係の中に、小さからぬ葛藤があるのだろうと思いました。

介護を受ける人、介護をする人、そして、とりわけダブルケアの場合は、介護の空間にいる子どもの人生が、しかるべき前進を続けることができるプランを工夫することが、よりよい介護につながるのではないかと思います。

介護という、とても人間らしい行為が、社会制度、人の思いやりによって、健全に持続できる環境が整えられることを、ずっと願い続けています。

 

いのちの仕舞い―四万十のゲリラ医者走る!

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